From a distance 1. 橋本 弘道
あなたの心の増幅器
昨年の初夏のことです。取材相手からメールが届きました。
「自分のことなのに、この記事のような人になりたいなあと思いました」
お礼の言葉の中に、この一文がありました。
メールを送ってくれたのは、ある講座に参加した60代の女性です。受講した何人かに私が取材して文章にする企画があり、この女性にも話を聞きました。ボクシングを習い、科目等履修生として大学に通っていたアクティブで意欲的な女性として書きました。メールをもらって、最初は少し戸惑いました。客観的に、ありのままの姿を書いたつもりだったからです。
昭和の終わりごろに新聞社に記者として入社して、主に社会部で仕事をしてきました。主観を入れるな、客観的に書けと上司や先輩から何度も言われました。現場の記者が書いた原稿をチェックするデスクと呼ばれる立場になってからは、同じことを後輩たちに繰り返しました。
わたしが取材してきた相手は、近く逮捕されるであろう金融ブローカー、不祥事が明らかになった企業トップ、疑惑がもたれている政治家、抗争事件にからむ暴力団関係者などの一方、褒章を受ける漫画家や料理人、文学賞を受けた作家、研究業績をあげた学者などがいました。事件事故や社会問題にはかかわりがないけれども、日々懸命に生活している人たちにも取材しました。こうした取材が一番多かったかもしれません。相手に個人的に好悪の感情を抱いたとしても、記事にするときには感情を排して事実を書いてきたつもりです。
でも、本当にそうだろうか、と自らの言葉に疑問符を付けざるを得ません。文章を書く行為には、そのときの書き手の感情がそのまま投影されるのではないでしょうか。客観的に書こうとしても、相手への気持ちが表れてしまうのです。
だからジャーナリズムに客観性を求めるのは誤りだと言いたいわけではありません。取材して記事を書くときは、できるだけ客観的であるように努めなければならないのは言うまでもありません。新聞記者を含めたジャーナリストは、そこに意識的でなければなりません。ただ、それは間違いないにしても、文章がそもそも持っている特質、機能として、感情が入り込むというか、感情を取り込んでしまうのを避けるのは難しいように思います。感情が入り込まない文章は、逆に他人には響かないでしょう。
昨年取材した女性からのメールは、そのことにあらためて気づかせてくれました。相手の言葉を書き留めて文章にしていく過程で、こちらの感情が相手に呼応して文章に入り込んだのです。文章を読んで、それに気づいた相手も、すでに「なりたい自分」に一歩近づいていたと言えるでしょう。
文章でも写真でも、表現することによって、なりたい自分になれるような気がします。文章や写真は、自分自身のアンプリファイア(増幅器)です。相手の言葉に込められた気持ちをどのように感じ取るのかも、自分の中のアンプ次第です。
一方で、ふと相手に覚えた違和感が、表現の仕方によっては鋭い刃となって相手を傷つけてしまうこともあります。そうした気持ちは、小さいままにしておく工夫も必要です。
明日のあなたと周囲のだれか、そして遠く離れただれかを元気づけられるように小さな声を増幅できれば――。そんなことを考えています。