Other voices 6. 吉田 勝己

Other voices 6.

吉田 勝己

わたしのTurning Points 2.

 工業高校を卒業して、米国IT系企業の日本法人に就職しました。多くの機種の修理メンテナンスをするカスタマーサポート技術部に所属しました。100年以上日本での歴史を持つ企業でしたが、私が所属した技術部は、とても日本的な文化を持った部でした。入社して2年間はapprentice (見習い、でっち)という肩書で、これは名刺にも入っていました。

 オフィスを開ける1時間前に出社してオフィスの掃除、先輩の道具の整理、先輩や上司が出社するとお茶を入れるという朝のルーティーンがありました。1971年4月に初めて出勤した日、いきなり上司に「もみあげが長い」と言われ、理髪店に行かされて刈り上げにさせられました。当時、銀行の新入行員の刈り上げは普通でしたが、それほど長い髪ではないと思っていた私には衝撃でした。
 小、中、高と私の活動から想像できるように、おそらく18歳の私は口数も多く生意気だったのだろうと思います。体育会系の封建的な文化には慣れているつもりでしたが、掃除の仕方が悪いという理由で仕事をさせてもらえず、一日中オフィスで立たされたこともあります。学校では先生に叱られるような経験がなかったので、とてもショックでした。
 研修は全寮制の施設で、機種ごとに4週間から3か月くらいの期間行われ、毎週金曜日に行うテストで90点以下は赤点になります。実力主義をうたう企業で、成績順に次の研修を受けることができると聞いていました。ところが、なぜか私より成績が悪い大卒の社員が次の研修に先に行くという現実にさらにショックを受けました。初の屈辱、挫折を味わいました。これが、私の3回目の大きなTurning Pointとなります。

 就職して2年が過ぎた1973年ごろ、人生のリセットとして考え始めたのが英国に行くことです。留学して自分の経歴にいろどりを添えようという大志を抱いていたわけではありません。生きた英語、生活に密着した日常会話、例えば近所の八百屋のおばさんと世間話ができる英会話を学ぼうと思いました。私の「敗者復活劇」の始まりです。

 でっち奉公が明け、名刺の肩書もエンジニアになりましたが、決意は変わらず、それから2年間で節約、アルバイトをして渡英の準備をしました。会社を辞めて1975年4月、学生ビザで入国、ボーンマスというイギリス南部のリゾート地にある語学学校から私の英国生活が始まります。
 この街は、リタイヤした英国人が多く移住していて、夏は海水浴客でにぎわいます。英語を学びたい若者が世界中から集まり、短期で滞在する街でもありました。きれいな英語を話すお年寄りが、花でいっぱいの公園を散歩している。ボーンマスには、そんなイメージがあります。
 学生ビザは、学校からの登録証明があれば取れますが、出席率が悪いと次の延長はできません。渡英当時、1ポンド720円の時代(その数年前までは1,008円の固定為替)、貯金が減ってアルバイトをしないとならない状況が想定より早く訪れました。知り合いの紹介でイタリアのシチリア出身の人の「付き添い」から始まり、ナイトクラブで深夜のバイトを始めました。 

 語学学校に1年在籍しましたが、思うように英語が上達しなかったので、最初の目的の日常英会話を学ぶために現地の人が行く学校への入学を目指しました。工業高校時代の成績を英語にして送ってもらい、Technical College(2年制Computer Science&communications コース)の入学を許可されました。その学校は日本の工業高校と同じレベルで、授業には問題なくついていけました。
 Technical Collegeではクラスメイト(私より4、5歳若い生徒)との会話も授業もすべて英語です。ナイトクラブでの日常会話の効果もあり、想定通り語学学校では学べない生の英語に日々触れることができました。