Other voices 8. 吉田 勝己

Other voices 8. 吉田 勝己

ボーンマスでめぐりあえた幸運

 1975年に英国に行き、海岸沿いの街ボーンマスで暮らしていたときのアルバイトの話をしようと思います。渡英して最初の夏休み、語学学校の授業は午前か午後の授業を選べるカリキュラムに変わったので、私は午前の授業を選び、午後はアルバイトをすることにしました。1年分は持つだろうと思い貯めてきた貯金も、1ポンド720円という円安時代ですぐ底をつきそうでした。選んだのはホテルの皿洗いという当時は典型的なアルバイトでした。仕事はきつくバイト代はかなり低い額でした。

 そんな時、ボーンマスのYMCAで少林寺拳法を教えていた日本人から、ボディーガードをやらないかと話を持ちかけられました。YMCAの少林寺拳法教室を見学に行ったことがあり、そこでその師範と知り合いになっていました。
「おまえ、空手の黒帯なんだろう?」
 師範に聞かれました。
「ええまあ……初段ですけれど」
「それなら、OKだ」
 簡単なやり取りでボディーガードを引き受けることが決まりました。雇い主はシチリア人で、ボーンマスで一番大きなホテルとカジノを経営する人物でした。いつものボディーガードが夏休みを取る10日間、代役を探しているとのことでした。そのボディーガードは身長190センチ、体重100キロ。私は178センチ、60キロです。務まるのかと不安になりましたが、雇い主が外出する深夜12時から朝5時まで常に傍らにいるだけでいいというのです。当時、ブルース・リーの映画が大人気で、アジア系の人が横にいるだけで抑止力になったようです。
「この街に私の友達はいない、近寄ってくる奴は皆金目当て。接近する奴がいたら、間に立ってくれればいい」
 これが雇い主の指示でした。彼は深夜12時からまず街のバーに行き少し飲んだ後、イタリアンレストランでステーキの食事をします。私もご相伴にあずかりました。その後、自分の経営するカジノ以外のカジノ(街に4件ありました)に行き、朝まで遊ぶというルーティーンでした。私はトマトジュースのグラスを片手に持ち、ひたすら彼の横にぴったりくっついて存在感をアピールしました。深夜の仕事ということもあり、日当は皿洗いの5倍でした。

 アルバイト最後の夜、雇い主のシチリア人からこの後も何かバイトしたいかと聞かれ、学校があるので昼はできないが、夜ならやりたいと答えました。クラブのBouncerの仕事を紹介され、それから三年間会員制クラブのBouncerをして生計を立てることになります。Bouncerは日本語に訳すと用心棒という意味になりますが、日本の用心棒の経験がないので、正しいかどうかはわかりません。

 私は高校時代、夜間に日本空手協会和道流道場に通って、高校卒業間際に初段審査に合格しました。と言っても、身体能力がもともと低いので決して強い初段ではありませんでした。入門した当時は同期が25人もいましたが、初段を取った時には私以外続けている人はいませんでした。地道に続ければ道は開けるということでしょうか。

 紹介されたボーンマスのクラブは、街ではハイクラスで原則として会員制でした。1階にバーが一つ、地下にバーが二つ、小さなフレンチレストラン(とてもおいしい店で、知り合いに招待され2回食べたことがあります)、そして当時流行していたディスコのダンスフロアがありました。
 それほど危険な目にはあっていませんが、パブが午後11時半に閉まり、飲み足りない酔っ払いが、けんか覚悟で会員制のクラブのドアを叩くことはしばしばありました。しつこい連中とは可能な限りドアの外側で説得します。交渉がすべててうまく行ったわけではありませんが、それほど大きな騒ぎにはなりませんでした。酔っ払った大柄な英国人と勝負しても勝ち目はありません。少林寺拳法5段の師範が酔っ払いに胸ぐらをつかまれ少林寺の技がかからなかった話を聞いていたので、胸ぐらをつかまれないように気をつけました。クラブの中で誰かが暴れても、真っ先にその人に飛びついて止めるのは私ですが、その後は他の客が手伝ってくれてその客を追い出しました。

 開店直後の午後9時過ぎ、まだ明るい時刻に1人の中国人が入ってきて助けを求められたことがあります。
「近くのディスコの用心棒の車に自分の車をぶつけてしまった。急いで逃げてきたが、修理代はきちんと払うつもりだから、その用心棒と交渉してほしい」
 中国人は青ざめた表情で私に説明しました。その店はボーンマスで1番大きな若者用のディスコでした。私が働いていたクラブは開店直後で客はほとんどいないので、中国人とディスコに一緒に行くと、あっという間に4人の体格の良い用心棒に囲まれてしまいました。恐怖を感じましたが、幸運にも私が仕事をしていた会員制クラブは街では上位の店で、私はそこのBouncerだと切り出しました。
「その中国人は私の友人だ。修理代を出すから勘弁してくれ」と話すと納得してくれてその場は収まりました。私は職場に戻り、1時間ほど後に中国人が礼を言い来ました。私がディスコの用心棒に説明した英語は決して流暢ではなかったのですが、こちらも必死だから伝わったのでしょう。“魂の会話”だったのかもしれません。
 会員制ではないワインバーで夏休みに同じような仕事をしたことがあります。入れたくない酔っ払いを断るのにずいぶん苦労しました。生活のためにやりましたが、今思うと無謀な行動でした。ただ、奨学金をもらうまでの3年間、このアルバイトで自活できました。

 大学に入学する前のボーンマスでの幸運は、まだいくつかあります。バイトをしたナイトクラブの4階(日本の5階)の屋根裏部屋を安く借りることができました。深夜2時半の仕事を終えて、帰宅は裏から出て階段を上がるだけ。クラブのマネージャーは空手の練習相手のイギリス人で、クラブのオーナーと交渉して家賃を安くしてくれました。
 さらに幸運だったのは、2年通ったボーンマスCollegeは、そこから徒歩2分の距離でした。授業を一回も休まず行けたのは、これらの幸運にもよるものでした。

 高級車ジャガーを所有していたクラブの仕事仲間の1人が、大きなリボンを車にかけて結婚式の日に教会までの運転手を務めてくれました。クラブの客のシェフが、自分の仕事が終わった後徹夜して、Reception(披露宴)の料理&ケーキを全て準備してくれました。20人ほどのささやかなパーティーでしたが良い記念になりました。