From a distance 5. 橋本 弘道

なかったことにできるのか
40年以上にわたる新聞記者生活で、自分でも嫌になるほど訂正を出してきました。
注意に注意を重ね、何度も確認して万全を期したつもりでも、誤った事実が記事になってしまうことがあります。誤りだと分かれば、関係者にお詫びをして訂正を出します。人権に関わるような重大な誤りの場合は、救済を図るべく全力を尽くすのは言うまでもありません。
一度だけ、誤った記事を出して喜ばれたことがあります。
1990年ごろのことです。体育関係の施設の管理をしている男性の記事でした。記事が出た日の午前中、この男性から新聞社に電話がかかってきました。
「私の年齢が違っているんですよ」
記事には55歳とあります。あわてて取材メモを見直すと、「10年○月○日」と書いてあります。「記者さんは昭和生まれと思ったんでしょう? 大正なんです」
衝撃でした。てっきり昭和生まれと思い込んで、それ以上は尋ねなかったのです。大正10年(1921年)生まれだとすると69歳ということになります。筋肉質の大柄な人で60代後半には見えませんでした。今なら見分けがつくでしょうが、30歳前後だった当時の私にとっては、その年代の人の歳を推測するのが難しかったという事情もあったでしょう。まさに見る目がなかったと言うしかありません。
「申し訳ありません。さっそく訂正を……」と言いかけた私をさえぎって、男性は「いやいや、せっかく若く見られたのだから、いまさら訂正は必要ありません。電話したのは、記事のお礼を言いたかっただけで、訂正してほしいということではないんです」と言って愉快そうに笑いました。上司と相談して、結局訂正は出しませんでした。
今はそのときの対応は誤りだったと反省しています。すぐに訂正を出すべきだったということではありません。取材相手から「訂正を求めていない」と言われたとき、安心して真剣に検討するのをやめてしまったことです。新聞社が情報として発信した以上、誤りがあれば正さなければならないという大前提を踏まえたうえで、取材相手と話し合うべきでした。
問題の記事がニュースなのか、話題ものなのか、記事の根幹に関わる部分なのか、それ以外なのか。そこに取材相手の心情を考慮して判断する必要があります。ただ、忘れてはならないのは取材相手の意向がどうであれ、誤りをそのままにするのは許されないということです。それは将来も変わらないでしょう。
一方で、変わるべきこともあります。誰もがSNSで発信できる時代に、一般の人が行けないような場所、会えないような人に取材して発信するメディアの記者に求められているのは何なのか。口あたりのよい、誰もが頷くようなことを発信している人の情報を、そのまま書くのか。逆に、軽んじられ、疎んじられているような人々の話をもっと聴いて発信する必要はないのか。
当事者から書かないでほしいと頼まれても書かなければならないこともあるし、書いてほしいと頭を下げられても書いてはいけないこともあります。それが、SNSと違うところです。