Other voices17 . 吉田 勝己

Other voices 17. 吉田 勝己

オーストラリア・メルボルンのimmigration museum の一室の壁全面に展示されている移民のパスポート

共生への道

 日本における外国人受け入れは、社会の秩序や共生を図る観点から、デジタル化やマイナンバー連携などの利便性向上と、管理・審査の厳格化という両面でルールの整備が進んでいます。今回は「共生」について考えてみようと思います。

 私が住む埼玉県のある市の在留外国人(在住外国人)は、総人口の約5.6%(18人に1人)です。この数字は全国的にも高いようですが、特別ニュースになるような大きな摩擦はないように思います。この市には国際交流を支援するボランティアグループがあり、現在登録している外国人約160人に対し、約60人のボランティアが主に日本語を教えて支援しています。
 牽引役となったのが現在帰化しているバングラデシュ人で、「この町に住む外国人が日本人に受け入れられるように」との思いから支援に力を入れるようになったそうです。私も支援活動のひとつとして、在住外国人中学生に数学を教え始めました。60年前の中学数学を1から勉強し直しての支援ですので完璧ではありませんが、少しずつ進めているところです。

 共生のあり方については、昨年10年ぶりにオーストラリア南東部のメルボルンに行ったとき、わずか1週間の滞在でしたが、大きな発見がありました。
 メルボルンは人口500万人で、シドニーと並ぶオーストラリアの大都市です。ただ、他の大都市とは異なる独自の文化を持っています。現在、250以上の国や地域にルーツを持つ約140の民族が暮らし、街全体で話されている言語も260以上に及びます。市民の3割以上が「家庭では英語以外の言語を話している」という調査データ(オーストラリア統計局)もあるほどです。

 多民族都市という点では、私が長年住んだロンドンも同様です。しかしロンドンではイギリス人が主体で他民族は「移住者」という感覚が強く、英語の良し悪しで人を判断することが少なくありません。一方、メルボルンでは英語が上手でも下手でも「皆同じ住民」という印象を受けました。メルボルンに11年住んでいる娘によると、差別に関して大変繊細な社会であり、お互いの文化や習慣の違いに過度に干渉せず、適度な距離感を保ちながら共生しているようです。

 最近、世界中の先進国で移民との共生がニュースになっています。日本も人口減少が進む中、江戸時代のような鎖国政策では経済が成り立ちません。共生はこれからの大きな課題です。

 以前書いたコラム「グローバルとは?」では、グローバルとは他民族・多民族を「理解すること」だと述べました。しかし、今回メルボルンで強く感じたのは、共生の鍵は、違いを理解すること以上に「違いを受け入れること」にあるのではないか、ということです。
 例えば、日本と比べるとサービス業の質は決して高くありません。アパートの修理をエージェントに頼んでもすぐ対応してくれるケースは1割もなく、何度も連絡して1、2週間後にようやく返事があり、そこから業者とのやり取りが始まる、といった具合です。しかし、そうした不便さや大雑把さも含めて、娘は「メルボルンが好きだ」と言います。これも一つの「違いを受け入れる」ということなのでしょう。私にとっても、通りの人が親切に道を教えてくれるような、人にやさしい好感度の高い街でした。
 多くの民族がうまく共生しているように見えるメルボルンですが、移民の国オーストラリアでさえ移民反対運動が起きています。もともと先住民(アボリジニ)の土地へ移住してきたイギリス人(最初は囚人)が作った国の歴史を思えば、なんとも皮肉な話です。

 先日、国会中継で議員が「差別は絶対あってはならない」と答弁していました。制度的に言動を厳しく禁止することは可能でしょう。しかし、個人的には、差別はそれぞれの意識に依存するものなので、心の中にあるわだかまりをすべてなくすことは、制度的にはできないと思います。
 だからこそ、完璧な理解を求めて、それだけを追求するのではなく、「いかに違いを受け入れ、共生していくか」を現実的に考えていく必要があるのではないでしょうか。