Other voices 7. 吉田 勝己

Other voices 7.

吉田 勝己

筆者が通ったBournemouth College of Technologye(1978年頃撮影)

私のTurningPoint 3.

 語学学校の次に通ったTechnical College(Bournemouth College of Technology)の授業は午前9時から午後5時までフルタイムでしたので、アルバイトは夜しかできません。ナイトクラブの仕事は午後9時から午前2時半まででした。借りていた屋根裏部屋にはシャワーも風呂もなかったので、学校が終わり次第、シャワーを使う目的でYMCAに行き、少し運動をして、その後夕飯の支度、食事をしながら婚約者への手紙(ほぼ日記的なメモ)を書き、宿題をして出勤という生活が2年続きました。

屋根裏部屋で勉強する筆者

 深夜のアルバイトの日当は皿洗いよりは高かったのですが、部屋代と食費でぎりぎりの生活でした。学校で教材が必要な時は、食費を削るしかありません。ミルクとパンで1週間過ごしたことも何度かありましたが、全く苦にならず落ち込むようなことはありませんでした。授業を欠席することもなく、2年間まじめに学校に通った結果、学校の教員長から大学進学を勧められました。Technical Collegeの2年のコースはレベルが低かったので働きながら通えましたが、さすがに大学は無理だと思うと教員長に伝えると、「この国には奨学金制度が豊富にある。外国人の申請はきいたことはないが、申請してみる価値はある。必要なら推薦書を書く」との答えでした。

 目的だった英会話もそれなりにできるようにはなりました。でも、すでに25歳。日本に帰国しても明るいキャリアは望めない状況でした。申請したのはDorset Countyという州が提供する奨学金で、承認されれば返済不要で学費と生活費がもらえるものでした。政権がサッチャーに代わった時で、まさに奨学金に対する政策を厳しく変えるというニュースも流れていました。外国人の私が承認されるかどうかはかなり微妙でしたが、申請して2か月後承認されたとの連絡を受けました。 

 奨学金申請と並行して大学進学の準備をしました。希望する大学を5校選び、それぞれの大学がこれまでの学校での試験の結果を審査し、レベルに達していると面接の連絡が来ます。私の場合、5校のうち1校から面接の連絡がありました。いろいろ交渉した結果、その大学ではなく、ロンドン大学のChelsea College(現在はKing’s Collegeに合併され、私はKing’sの卒業生になっています。)に入学が決まりました。 当時ロンドン大学には工学部があるCollegeが5校あり、そのうちの一つに何とか入学できました。3年制学士コースで、First Class Honours Degreeを取得し卒業できました。卒業証書にも記載されています。日本語の「首席」と同じかどうかわかりませんが、学部で、私とイギリス人の2人が授与されました。

 このFirst Class Honours Degreeを取得するには、3年間油断することなく常に好成績でなければなりません。私の場合、努力したのも事実ですが、なぜかいろいろアドバイスをくれる教授がいて、実験レポートでも、彼から提案を受けて指示通りにまとめると好成績をもらえました。卒業プロジェクトもその教授の提案で、修士学位用のプロジェクトを行うことになり、何とか完了して教授も大喜びしてくれました。

大学の卒業プロジェクト。今見ればお粗末なハードウェア構成。当時、デジタ
ル信号を処理するICがなく、いろいろなICを組み立てて処理する必要があった。
だが、これが評価され、Imperial CollegeからPhDへのお誘いがあった。

 卒業プロジェクトを審査するのは、評価を公平にするため、他の大学の教授です。工科大学として知名度が高かったImperial College(現在はハーバード、MIT、オックスフォード、ケンブリッジに次いで、大学世界ランキングTop10内)の教授が来校して、その教授から難しい質問をたくさん受けました。質問にはほとんど答えられなかった記憶しかありません。面接後、試験担当の教授から、博士課程をImperial Collegeに来てやらないかと招待をうけました。

 卒業プロジェクトに夢中になっている頃、通っていた大学の大学院長から、当校で博士課程にすすまないかと提案があり、研究費は当校ですでに用意してあると言われました。そこで私は、知名度の高いImperial Colleeからも同じ誘いが来ていると正直に話し、奨学金は確定していないと伝えると、その教授は、当校に残るなら申請は必要無いが、他校を希望するなら、奨学金の推薦状を書いてあげるとまで言ってくれました。申請先は英国科学研究機関でした。私のような学生ビザで勉強している外国人学生でも申請できるのか尋ねたところ、規約ではHome Studentが対象となっているが、その定義については書いてないので、申請してみて損はないと思うということで、申請書に教授の推薦書を添えて教授自身が申請してくれました。結果は、First Class Honoursを取得すれば承認するというものでした。

 ここでつまずいたのが私の英語力でした。日常会話で使う単語は3000語ぐらい。ほぼ同じ表現の繰り返しで何とかなります。渡英の目的通り会話はまあまあ不自由なくできるようになり、学科は文系でなく理系だったので、授業にも問題なくついていけました。実験レポートも好成績で評価されました。しかし、卒業論文を書く際、自分の語彙力、表現力が乏しいことに気づかされました。学士卒業論文は私の英語で通りましたが、博士論文はそうはいきません。表現や単語などを教授に修正してもらいました。

 1985年4月、Diploma Imperial College(修士同等の大学院学士)と同時にPhD(博士号)を取得しました。これで私の10年の英国学生生活に終止符を打つことができました。

 1978年大学入学が決まったとき、当時25歳だった私はボーンマスで結婚をしました。妻の支援なしで、学士、PhDの学位取得に挑む気力はなかったと思います。

1978年結婚。バイトをしていたナイトクラブの常連客の1人のローカル新聞の記者が、お互いそれぞれ
書いた160通以上もの手紙で結ばれたロマンスという記事にしてくれた。

 高卒で挫折した私は、この英国経験で敗者復活を遂げたと思っています。高卒での就職時の屈辱がきっかけでこの経緯に至ったわけですが、そのまま仕事を続けていてもそれなりの道を歩んだと思います。道は一つではないわけですから。

 帰国後、研究職に興味がなかった私は、再度サラリーマンになります。大志は抱きませんでしたが、3~5年単位で自分のキャリアを振り返り次のステップを考えるようにしました。もちろん、全てがうまく行ったわけではありません。ただ、家族を守るという志は達成したと思います。